ざきやんのスカウツオウン

ボーイスカウトの指導者がスカウト運動に関連して考えたり見聞きしたことを書き溜めている場所です。

良い雨具を買ってもらったら、雨の日が楽しみになる

これも、私がWB研修所BS課程の際に聞いた話です。

スカウトの活動は野外で行われます。そのため、天候は活動における重要なファクターの1つです。

雨の日の活動というのは、非常に辛いです。火を起こそうと思ってもなかなか火がつかない、自分の持ち物はびしょ濡れになる、時には持ってきた書籍が濡れてボロボロになる、テントで雨漏りしてしまうと寝られない…などなど。もちろん、日々の訓練において、雨に備えておくことは必要です。でもやっぱり、雨の日の集会は憂鬱です。

でも、ちょっと雨の日が楽しみになるきっかけがあります。それは、良い雨具を買ってもらった(大人の場合は買った)ときです。「これで雨の日でも大丈夫!」「早く試したい!」と、ちょっと雨の日の集会が待ち遠しくなります。

「スカウトは質素である」なので、高価なものは必要ありません。が、ちょっと良い装備を持つことはそこまで悪いことやないと思います。

かく言う私自身も、ちょっと良いアウトドアグッズを買うと、スカウトのキャンプやハイキングで使いたくなる気持ちになります。「集会の楽しみ」が増えることは悪くないことかも知れませんね。

人や組織の真価は非常時に現れる

私の高校時代の話です。私立の高校で伝統的な名物があることもあって、毎年6月頃に開催される体育祭には、生徒の保護者のみならず、受験生や一般のお客様が多数観覧に来られていました。また、この体育祭は先生方が主導して行うものでもなく、上級生の生徒たちからなる「役員」たちが考えて運営をしていました。安全面に関しては、先生方が補助をしておりましたが、受付、競技の審判、放送、場内の案内、救護所…これらは生徒たちの手でおこなわれていました。

しかしながら、梅雨時の6月ということもあって、天気が不安定になることもしばしばありました。朝から降っていれば中止、というよりも、競技が始まりだしてから雲行きが怪しくなって突然夕立のような雨が降る、ということの方が多かったです。

ある年の体育祭も、朝から曇りがちでしたが、予定通り体育祭は挙行されました。昼頃に体育祭の名物となるものが行わ荒れるということから、お昼にかけて入場者が増えてきたとき、突然の土砂降りとなりました。競技は中止、生徒たちは教室へと待機させられることとなりました。多数入場されていたお客さんも雨宿りする必要がありました。突然の雨で、傘を持っておられないお客さんも多数おられ、雨宿りができる場所を求めて運動場は一時混乱状態となりました。

この非常事態のとき、役員であった生徒たちが大きな役割を果たしておりました。多数の人であふれかえる通路や階段を安全に進めるよう、積極的に誘導し、傘のない方には傘を配って回っていたのです。役員の生徒たちは、自分たちはろくに傘を指したり雨具を着用したりするまもなく、ずぶ濡れになりながら一般生徒や来場者を誘導しておりました。

別に、雨が降ったらどうしよう、というのは事前に綿密な計画があったわけではなかったと記憶します。避難場所はここ、誘導はどの係がやる、とだけ大まかには決まっていたとは思います。しかし、この非常事態に、各自がしっかり自分の役割を全うし、足りないところはその場の判断でしっかり動く、と言ったことがしっかり出来ていたその姿に、一生徒として尊敬の念を覚えました。

平常通り、つまり、雨が降らずに(降ったとしても小雨程度)そのまま体育祭が進行し、計画通りに終えることは誰でもできることでしょう。しかし、なにか不測の事態が起こったときには計画などは意味がなくなり、各自が考えて行動を起こす必要が出てきます。それは、個人単位でも組織単位でもそうでしょう。非常事態が起こったとき、それに対処するときに、その人・組織の真の姿が見えると思います。良くも悪くも、です。

先の話で言えば、もし、役員個人や組織になんの力もなければ、適切に多数の人を誘導することも出来なかったでしょう。しかし、ずぶ濡れになりながらでも、しっかりと他の生徒や来場者を誘導できたのは、日々の中でそれだけの力を蓄えてきたからなんだと思います。

非常時に力を発揮できるように「そなえよつねに」。スカウトのモットーを思い返す度にこの出来事が思い浮かびます。

ローバースカウトの指導者は誰か

今の多くの団の現状として、ローバー隊長は団の中で最後に決める隊指導者ではないかと推察されます。ローバースカウトのテーマは「自治」なので、指導者が入る余地はあまりなく、カブ隊やボーイ隊の指導者に比べてスカウトと一緒に隊活動をする機会や時間が少ないため、「とりあえず名前だけ」でローバー隊長に指名される方も多いと思います。

しかしながら、ローバー隊長は実は一番難しいのでは無いかと思います。

ローバー隊の指導者は、たしかに、カブ隊やボーイ隊の指導者のように基本動作や技能、知識を教える必要はありません。トラブルや問題を解決する場面もほとんどありません。しかし、だからと言ってローバースカウトは放置して良いわけではありません。ローバー部門は最後の教育部門として位置づけられているわけですから、ローバースカウトもしっかり教育(善導)せねばなりません。

私が考える、ローバースカウトに対する教育ですべきことは、「気づきを与えること」やと思います。ローバースカウトは自分たちで考えてプロジェクトを企画・実行したり、隊指導者として奉仕したりします。それが一体どういう意味を持つのか、自身の成長にどういった意味を持つのか…なかなかローバースカウト自身だけでは気づくことが出来ないでしょう。その意味付けを助けるのがローバー隊長の任務でしょう。

もう一つのすべきことは、その気づきを言葉にできるようになってもらうことだと思います。進級面接のときのように、実際に気づいたことや考えたことを表現しなければ、身についたとは言えないと思います。ベンチャーまでであれば、それらは進級記章として表現されますが、ローバースカウトには進級記章がありません。表現の仕方は様々であるからです。指導者としての経験に活かすもよし、団内で「プロジェクト発表」と称してやるのもよし、どんな形でも良いと思います。しかし、やはりこれも、「言葉にすることができる」ようになるためには、助けを出す必要があるでしょう。

そのように考えると、ローバースカウトの教育に携わるのは、ローバー隊長以下ローバー隊の指導者だけではないように思えます。ビーバーからベンチャーまで、すべての成人がローバースカウトの教育に携わっていると言えます。隊の奉仕に来てくれているローバースカウトに、ただただ雑用をやらしたり、「来てくれてありがとう」と感謝だけを述べるのではなく、「あなたにとって、この活動はどのような意味があるのか」をしっかり伝えてあげなければならないと思います。そして、ベンチャー以下の隊の指導者は、今、自分が目の前で世話をしているスカウトが5年後、10年後、ローバースカウトとしての課程を終え、指導者になる際には、どのような姿になっていてほしいのか、ということをイメージしながら指導にあたるべきだと思います。これは、団委員長以下、団内の指導者で一貫教育の中でしっかり考えていかねばならないことだと思います。

近年は、スカウト経験のない保護者や地域の大人がスカウトの指導者になるパターンが多いと聞きます。そのような方々も、やはり、ローバリングとかローバースカウトたちに必要な教育は何か、ということを知っておくべきなんやろうなと思っています。

「カッコいい隊長になれ」

私が初めて、「研修所」というものに行ったのは、他県連開設のボーイスカウト課程のものでした。そもそも、研修所に参加したきっかけは、世界ジャンボリーで派遣隊指導者として参加しようとしたのですが、参加資格に「研修所修了」があったので、しかたなく、といった感じでした。しかし、この研修所での経験が今に至る指導者としての考え方やモチベーションを大きく変えたことは間違いありません。

当時、大学生だった私はボーイスカウト隊の副長補という役務でありながら、実質的には隊長のような役割をしておりました。先輩指導者は団内にいたものの、懇切丁寧に物事を教えてくれる人はあまりおらず、私自身の指導方法も我流や経験に基づく「なんとなく」なものでした。おそらく、他団からすればいろいろ大変なこととか課題があったはずなのですが、それにすら気づいていない状況でした。

そんな状態で臨んだ研修所ですから、指導者としての目的や目標もなく、先述の「資格を得るため」だけのものとして参加してました。

研修所の初日、開所式での所長の話はこうでした。

「ここに集まった皆さんは、いま隊長をやられている、あるいは、これから隊長になろうとしている、なっていく方々です。この研修所を通じて、カッコいい隊長になることを目指してください。スカウトからカッコいいと言われる隊長、他の指導者からカッコいいと言われる隊長・・・それを目指して研修に臨んでください。」

この話を聞いたとき、私は正直ピンと来ていませんでした。「カッコいい隊長」と言われてもこれまで出会ってきた指導者にそういう人は思いつきませんでしたし、自分自身のキャラクターとそれがマッチしなかったのもあります。とにかく、設営を済ませて、研修の講義を受け、班員の参加者といろいろな話をし、初日を追えました。

2日目の朝、点検を終えて、朝礼で所長からの話がありました。そこでの話は非常に短かったのですが、私は聞いた途端に背筋がピンとなりました。

「皆さんはここまで《カッコいい隊長》として振る舞えましたか?今朝のサイトの状況を自隊のスカウトが見て《カッコいい》と思えますか?《カッコいい隊長》を目指して、引き続き研修に臨んでください。以上。」

たったこれだけでした。しかし、それまで研修の参加意義についてボヤーッとしていた私にとっては十分すぎる内容でした。

その時初めて、隊指導者、特に隊長はスカウトから常に見られているという認識を持つことが出来ました。セレモニーでの動作、普段の技能、指導者サイトの様子、スカウトや他の指導者への発言…自分がそれまで意識していなかった場面でも「見られている」と考えるようになりました。もちろん、スカウト活動中、ずっと気を張っていては疲れますので、自分が活動を楽しむ場面を作ることで、適度に抜くところは抜きます。

私の考える「カッコいい」は、 - やるべきことをちゃんとやる - 動作や振る舞いに迷いがない - 一緒に行動したいと思える ということです。完璧である必要はないと思っています。ときには、スカウトの気持ちになって、一緒に考えたり学んだりするような場面があっても良いと思います。しかし、スカウトの「仲間」としてではなく、隊長として振る舞うこと、「カッコいい」と思ってもらえるように意識することは忘れてはならないと思います。

その研修所の所長は、女性の方でしたが、研修期間中、終始カッコ良かったのが脳に焼き付いています。

「カッコいい隊長になる」

が私のその後のスカウト人生の目標となり、今でもその目標を追い続けています。

ではでは。

教えるためのインプットの仕方

中学2年生くらいからなんとなく「将来何になりたいか」ということについて私が考えていたことは、「学校の先生になる」でした。その前くらいから、人にものを教えることについて興味はありましたので、別に学校の先生でなくても良かったのかもしれませんが、明確にイメージが付いたのはそれが初めてだったと思います。

私は、特に数学や理科に興味があった(決して得意ではなかったのですが)ので、熱心に聞いていました。先述したように先生になることを志し始めた後からは、授業の聞き方や勉強の仕方が変わったように思います。

例えば、授業を聞くとき、

「あぁ、この言葉を使えば○○の考え方はよく分かるなぁ」

と考えながら聞いて、ノートにメモしたり、記憶していました。「自分がもしも、教壇に立って教える立場になったら、どうやってこの単元のことをしゃべるか」ということを(生意気にも)考えながら授業を聞いていたりしました。また、塾や予備校と行った学校以外の場所で授業を受けるときも、聞いた内容を比較しながら、「自分のオリジナルの理解の仕方」を構成していってました。

授業以外でも、教科書や問題集の解答を読む際に、「自分が説明するとしたら…」という視点で読んでみたり、授業のネタとして使えそうな話(その単元が利用されているところはどこか等…別に私が授業をするわけではなかったはずなのですが)を図書館で探してみたりなどしていました。

そういった習慣のおかげか、講義を聞いたり本を読むなど、自分になにか新しい情報をインプットする際に「今インプットしている内容を次に別の誰かに教えるとしたら、どう伝えるか」を考えながら行うようになりました。これは、勉強のみならず、あらゆる場面においてそうなっていきました。

このことによって、物事の本質を見ようとする姿勢が身についたのではないかと感じます。聞いた話や入ってきた情報の意図や真意といったものを探るクセがつきました。

スカウト運動に関わることについても、いろいろ考えることがあるわけですが、時々、「自分が考えていることは見当違いではないかな?」と不安になることがあります。そんなときには、B-Pや過去の先人が著した書物を読んで、自分の考えを表す言葉が書いていないかを探します。イチから読むのではなく、「大体ここに書いてないかな?」といった見当をつけて読むと、案外見つかるものだったりします。

ときには、そういった具合で文献を漁っていると、「自分はちょっと勘違いしてたな」とか「へー、こんなこともあるんや」という発見もあります。それも学びの一つです。

人にものを教える際、自分が想定した通りのことをただ喋ればそれで終わるかと言うと、そうはいきません。質問も飛んでくるでしょうし、自分の教えている内容が殆ど伝わっていなかったりします。質問にも対応できて、内容があんまり伝わらなかったということにならないように、自分自身の中で説明の手立てを多く持っておくことは必要だと思います。ただ人の言葉や手法を借りてその手立てを増やすのではありません。物事の本質を掴みさえすれば、多少手法がヘタクソでも、教えるべき内容はちゃんと教えられるものだと確信しています。

ではでは。

Look Wide

標題は、1950年頃にイギリスで新たにシニアースカウト(現在のベンチャースカウト)のために刊行された書物のタイトルから来ています。「物事を広く見よ」という意味で、シニアースカウトの合言葉となったそうです。 この言葉は、(その時は既に亡くなっていましたが)B-Pの次の言葉から来ています。

視野を広くもて。自分で視野を広く見ていると思っているときも、もっと広く見渡しなさい。

私の目の前にある山は、「もっと広く見よ、もっと高く見よ、もっと遠くを見よ、そうすれば未知が見いだせる」と、私に告げている

(B-P)

これについて、"ちーやん"こと中村知さんは次のように述べています。

スカウティングは国内だけでなく、広く世界にひろがった運動であるから、カブからローバーに至る課程(あるいは過程)のなかの、シニアの段階で、World Scouting についての勉強をすべきだという意味を込めていると解すのである。

(中略)

自分の隊、自分の県、自分の国のスカウティングにだけ力を尽くし、思いを寄せていればよいというような、狭い心ではスカウティングの真の大きな姿を発見できないだろう。世界的な市民にはなれない。

われらは、わが国に欠けている広域スカウティングをもりあげねばならない。それは、今後の日本のシニアスカウティングのあり方のいかんにかかわっているのではないだろうか?

(スカウティング1964年5月号)

教育の課程として、ボーイスカウト隊からベンチャースカウト隊に上進したとき、形として大きく変わるのは、固定された仲間で構成する「班」がなくなり、流動的なメンバーで「プロジェクト」を構成し、活動する点です。ボーイ隊の班活動自体は班員による自治によって行われるものですが、年間を通して班員が変わることはありません。しかし、ベンチャー隊のプロジェクトでは、とある目的をもった仲間どうしで集まってプロジェクトを構成します。そして、プロジェクトの期間が終われば解散します(また別のプロジェクトで一緒になることはあるかもしれませんが)。

では、プロジェクトメンバーはどこから集めてくるのでしょうか。おそらく、今の日本の多くの団では、自分の隊(団)の中からだけ集めてくるのは難しいと思います。ちーやんが述べたように、地区や県といった広域のスカウティングを展開しながら、仲間を探していくことが必要な場面もあるかと思います。日本国内や世界規模のスカウティングを展開することは難しくとも、隊(団)の外に仲間を求めていくことは、私は大いに賛成するところです。

しかし、それで自分の隊・団の活動をおろそかにして良いかというと、決してそうではないと思います。団がなければ、そのスカウトは活動できないです。大事なことは、"Look Wide"で他所で得た知見や経験を隊(団)の活動へ還元することやと思います。隊(団)の活動だけでは知り得なかったこと(これは、研修所などでの学びも含みます)を自分の最も身近な場面で活かすことが必要です。

それは、指導者もスカウトもどちらにも言えることやと思います。

もう一つ、私が忘れてはならないと感じるのは、隊や団の外に出るための基礎体力は、やはり団内で付けなければならない、ということです。隊や団の中で満足に活動できていなかったり、活動の意義を理解せぬまま外の世界に行ったとしても、外で得られることは少ないでしょう。時間が無駄になってしまいます。必要以上に、団内にスカウトや指導者をとどめておいて外界に触れさせないでおいておく必要はないと思いますが、団内ですべき教育はしっかりしておくべきでしょう。

隊や団の外に出て学ぶことは、手段であり目的ではありません。大きな世界で活躍することは目標の一つとして掲げることは大変素晴らしいことであると思いますし、そうあるべきであると思いますが、「何のためにそれをやっているのか、そこを目指すのか」はしっかり考える必要がありそうです。団内のスカウトや指導者にもそう伝えていきたいものです。

ではでは。

「言葉に出せる」ことの意義

スカウトの進級面接は、団指導者がスカウトと接する数少ない機会です。それは、「そのスカウトが○級にふさわしいか否か」を判定するものではありません。これから次の級に進むにあたって、現在の級で取り組んだことを振り返り、ここまでの取り組みに対して「ちかいとおきての実践」を気付かせ、さらに上の級への取り組みを発奮させるものです。取り組みを発奮させるものです。

いざ、進級面接をやってみると、スカウトにとっては答えやすい質問と答えにくい質問があることがよくわかります。

「学校で何してる?」

「何に一番興味がある?」

「これまでで楽しかったことやしんどかったことは何?」

といった、自分の行動についての質問や経験に関する質問はよく答えられるのですが、

「○○についてはどう思う?」

「日常生活でスカウト活動と結びついてると感じた場面は何?」

など、そのスカウト自身の考えを問う質問に対する反応は鈍いです。

さて、「面接」と聞くとぱっと思い浮かぶのは、学校の入学試験や就職の入社試験の際の面接です。スカウトの進級面接と違い、あちらは被面接者をふるいにかけるためにやっているわけですが、やはり、聞かれるのは「あなたは、どう考えますか?」といったことです。 これに答えられなければ、当然、試験には通りません。 (もっとも、就職の入社試験の初期段階では、「質問されたことに対して正しく答えられているか」が問われるのですが)。

古代ギリシャの哲学者プラトンの遺した言葉に、このようなものがあります。

賢者は、話すべきことがあるから口を開く。愚者は、話さずにはいられないから口を開く。

この意味は、「うまく言葉に出来て話が出来ることというのは、自分のなかでしっかりと考えがまとまっていていることである」という意味だと思います。 面接でも「話すのうまいなー」という人は、その人の中できちんと考えがまとまっていているのだなと感じます。逆に、よく喋るんやけど、何を言ってるのか良く分からなかったり、結論がよくぼやーっっとしている人は、よくよく聞いてみると、考えがまとまってなかったりします。

ボーイスカウトの進級面接は、喋るのをうまくする訓練ではありません。しかし、そこで自分の考えをうまく表現できる人間を育てる意味は含まれていると思います。つまり、「ちかいとおきての実践」について、その場で気付いてもらうようにするべきなのです。面接の場に臨んだスカウトに

「あ、次にはこういうことを考えられるようになろう」

とか

「こういうことでも生活に役に立ってるんや…これからもっとよく見てみよう」

という気持ちになってもらえるようにせねばなりません。進級面接に臨む団指導者も、ただただ「そういう制度があるから」やるのではなく、目の前のスカウトを成長させられるように、という気持ちにならねばならないと思います。

ではでは。