ざきやんのスカウツオウン

ボーイスカウトの指導者がスカウト運動に関連して考えたり見聞きしたことを書き溜めている場所です。

しつけは体罰によって成し得るか

つい先日、こんな記事が紹介されていました。

「体罰」を禁じることで若者の暴力性が劇的に減少することが88カ国40万人を調査した研究で示される - GIGAZINE

記事内で、このような記述があります。

体罰を受ける子どもは「自分は望まれない人間なんだ」と考えることや、体罰を受けた子は大人をまねて自分も体罰で「しつけ」をする連鎖が生じることも明らかになっているとのことです。

日本では、まだまだ「しつけ」と称して体罰を容認する趣が根強く残っているように感じます。たしかに、「訓育」のためには「しつけ」はある程度必要なのかもしれません。しかし、それを盾にした暴力は決して許されるものではありません。 (「訓育」と「教育」の違いについては、本ブログ内の記事をご参照ください。)

zakiyan.hateblo.jp

「しつけ」は漢字で書くと「躾」です。礼儀正しさや作法を教えることによって、「美しさを身につけさせる」わけですね。素晴らしい字だと思います。

では、「美しさを身につけさせる側」が暴力を振るうことは果たして美しいでしょうか?抑圧をし、怖い思いや不安な気持ちを起こさせることによって身に付けさせる礼儀や作法は正しいものなのでしょうか?

B-Pは「隊長の手引」の「紀律訓練」の章で次のように述べています。

これ(紀律)は、抑圧的な方法では達せられないけれど、まず自己の紀律、それから他人のために自我や自分中心の楽しみを犠牲にすることを教育したり励ましたりすることによってなし得る。これを教えるのは、実際の手本により、子供に責任を追わせることにより、また彼を高度に信頼しているのだということをわからせることによって、大きな効果をあげることができる。

(中略)

悪い癖のある子を罰したからといって紀律が良くなるものではなく、その子の注意を引いて次第に悪い方を忘れ、辞めてしまうような、もっと良いことを、代わりにさせるようにすれば良い。

隊長は紀律については、小さなことに至るまで厳格にしかも立ちどころに従うように強調すべきである。少年たちが馬鹿騒ぎをするのは隊長が許したときに限ると良い -- もっともこれは度々あって良いことだが。

(B-P「隊長の手引」より)

昔の日本のボーイスカウトでは、あちこちで、今では「体罰である」と非難されて当然の行為がごく当たり前になされていたと聞きます(今は、「セーフ・フロム・ハーム」によって禁止されています)。昔がそうだったのは、B-Pが「規律は体罰によって身につけるべきである」と述べたから、では無いわけです。日本において、昔から伝統的に「しつけ」はそのように行われていたから、なのです。

今は、その考えを改めるべき時期に来ています。それは、感覚的にそうだから、だけではなく、科学的に証明されていることが、最初に紹介した記事に書かれているためです。体罰や抑圧による「しつけ」は良い結果をもたらさないのです。

B-Pも述べているように、子どもたちを信頼し、尊重することが大切です。子どもたちにしっかりと責任をもたせるのです。

決して甘やかしてよいわけではなく、細かいことにも目を向け、指導することが必要です。私の経験上、きちんと話をする場や空気を作り、子どもたちの目を見て話をすれば、規律については教えられます。暴力は必要ないです。しかし、ちょっとしたことでも見逃さない、ということが重要です。それは、昨今問題になっている「いじめ」の解決のための重要であると考えます。

子供は、大人の鏡であると考えます。大人が暴力を振るう姿を見たら、どう育っていくのか…もう火を見るより明らかな気がします。

ではでは。

後藤新平「人を残すものは…」

ボーイスカウト日本連盟初代総長の後藤新平は、明治から太正にかけて活躍した医師・官僚・政治家です。

彼は、もともと政治家を目指していたのですが、遠い親戚に当たる高野長英が「蛮社の獄」で弾圧を受けたこともあり、周囲に反対され、医師の道を歩んだといいます。その後、なんやかんやで官僚となり、政治の道に入り始め、「ゆくゆくは内閣総理大臣になる人だ」と言われていたそうです。しかし、1920年汚職事件で辞職した前職の後を引き継ぎ、東京市長への就任を打診されます。国政を離れ、出世コースからは外れることとなりますが、これを引き受けます。その際、

一生一度国家の大犠牲となりて一大貧乏くじを引いてみたものの、東京市長はこのかねての思望を達する一端にあらざるか

という言葉を手記に残しています。東京市長として、東京を近代都市として整備する事業を手掛け、後の関東大震災の際には復興担当の大臣として、帝都の復興に尽力しました。

そんな彼が晩年倒れる日に、ボーイスカウト日本連盟第4代総長の三島通陽に残した言葉が次の言葉です。

金を残して死ぬのは下だ。

事業を残して死ぬのは中だ。

人を残して死ぬのが上だ。

『スカウト十話』三島通陽

まさに、スカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付した後藤の姿を表す言葉であり、スカウト運動が目指すべき大切な心を表している言葉であると思います。

スカウトの指導者は皆ボランティアです。それでも、これだけ一生懸命にできるのは、人を残す喜びを知っているからなのです。自分が指導したスカウトが、たとえ、スカウト活動から離れてしまっても(離れないのが一番ですが…)、社会で活躍する姿を見ることができれば、これほど嬉しいことはないのです。

人を残すためにどうすればよいか。東京市長時代に後藤はこんな言葉を残したとも言われます。

午後3時ごろの人間は使わない。お昼前の人間を使うのだ

実績のない若手であっても、信頼して抜擢し、育てていくこと…数十年かかる都市改造計画を進めていく上で、次にしっかり引き継いでいくことの大切さを後藤はきちんと見抜いていたのでしょう。

ではでは。

※参考にさせていただいたページ:後藤新平 - ぶらり重兵衛の歴史探訪2

街頭募金で一番よく入れてくれる人

しばしば、街頭募金をやってて思うことがあります。通りかかったときにお金を入れてくれる方の特徴を見たときに、

  • 親子連れ、特に、小さいお子さんがいらっしゃる方
  • お年寄りの方
  • 身体に不自由なところがある方

が多いなという印象があります。いかにも健康そうで、何の不自由もなく生活していそうな方々よりも、そういった方々のほうがよく入れてくださる印象があります。

ふと、キリスト教新約聖書にこんなフレーズがあるのを思い出しました。

エスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。 (マタイによる福音書5章1~12a節)

私は、神父さんではありませんので、この箇所に関する詳しい言及は避けますが、街頭募金にお金を入れてくれる人はまさにここで言われる「心の貧しい人々」「 悲しむ人々」、つまり、多くの人々が不幸だ、災いだ、と考えるであろう人なのではないかという気がしています。決してその方々が皆自らの境遇を憂いているわけではないということも付け加えておきます。

先程挙げた、小さいお子さんを連れた方、お年寄りの方、身体に不自由なところがある方は、私のように何でも無い人間に比べると、ご苦労なさっているのではないかと察します。しかし、周囲の優しい方々に助けられた場面もおありなんだと思います。

街頭募金にお金を入れてくれようというお気持ちをもってくださっている方は、他人に優しくできる方です。困っている人を助けよう、という気持ちを持てている方なんだと思います。それはなぜか?ご自身も他人からの優しさを受けてこられて、また、そのことにきちんと感謝の心をもっているからだと思います。「私は困ってるんやから、人からなんかされて当たり前」とは決して思っていないはずです。

まだ苦労が少なく生活が出来ている私たちですら、他人からの優しさを受けて生活しているはずです。そのことにきちんと感謝できれば、他社に対して、特に、困っている方々に対して、どう行動すべきかはわかるような気がします。

ではでは。

「訓育」と「教育」の違い

「訓育」と「教育」、どちらも、人を育てることを指す言葉としてしばしば使われますが、英語にすると意味の違いがハッキリわかります。

  • 教育する = educate・・・ex-(~の外へ)+dewk-(導く)が語源:内から能力を引き出すことが目的
  • 訓育する = discipline・・・discipulus(生徒)+disciplina(指導;学問)が語源:青少年の統制を取ることが目的

今のボーイスカウトの規定では、ビーバーとカブは「訓育」の対象となっており、ボーイ以上は「教育」となっています。 例えば、指導者の資格の箇所を見ると、

  • 規定3-18「(ビーバー隊)隊長および副長の資格」:隊長は、児童の訓育を託するに足る品性と経歴を有する者で…(以下略)
  • 規定3-31「(カブ隊)隊長および副長の資格」:隊長は、少年の訓育を託するに足る品性と経歴を有する者で…(以下略)
  • 規定3-52「(ボーイ隊)隊長および副長の資格」:隊長は、少年の教育を託するに足る品性と経歴を有する者で…(以下略)
  • 規定3-69「(ベンチャー隊)隊長および副長の資格」:隊長は、青年の訓育を託するに足る品性と経歴を有する者で…(以下略)
  • 規定3-78「(ローバー隊)隊長および副長の資格」:隊長は、青年の訓育を託するに足る品性と経歴を有する者で…(以下略)

となっております。

※ちなみに…昭和42年の日本連盟規約では、年少隊(カブ隊)、少年隊(ボーイ隊)、年長隊(シニア隊、現ベンチャー隊)では「訓育」、青年隊(ローバー隊)では「善導」となっておりました。

また、第7章もビーバとカブは「訓育」、ボーイ以上は「教育」となっています。

単なる言葉の違いかもしれませんが、部門によってスカウトにどう物事を教えていくかはやはり違うんやと思います。ボーイの班活動は、隊指導者から押し付けたりやらせたりして成立するものではなく、班長を中心としたスカウトたちから引き出すものであるなと思います。ベンチャーやローバーのプロジェクトもしかりです。

とは言え、決して、カブ隊やビーバー隊のスカウトには上から何でも押し付けて良いものでもないと思います。しかし、ボーイ隊以上のスカウトとは少し違った観点でいろいろなことを教える必要があるのかもしれません。

ではでは。

スカウティングの究極の目的は…?

「スカウト運動の目的はなんですか?」 「より良き社会人を育成することです」 といったやりとりというかQ&Aはよくあります。 私は、「より良き社会人を育てる」といったことよりも、スカウト運動が「運動」たる大きな目的があると感じるようになりました。

それは、 「世の中、特に未来を担う子どもたちに、《本当の幸福とはなにか》ということを教えるため」 であります。

まず、スカウト運動=スカウティングは「運動(Movement)」です。「運動」とは、辞書をひくと、

③ 目的を達成するために積極的に行動すること。 「学生-」 「緑化-」 「選挙-をする」 (大辞林 第三版)

とあります。ある目的のために積極的に働きかけることが「運動」です。 また、スカウティングは、もっと狭めて言えば、「社会運動」です。「社会運動」とは、

社会問題の解決を目的として行われる大衆運動。社会主義運動・慈善運動などを含め、広い意味に用いられる。 (デジタル大辞林

です。つまり、ある社会問題を解決することが目的となるはずなのです。

では、スカウティングが解決すべきと考える「社会問題」とは何でしょうか? スカウティングの目的を「より良き社会人の育成」と言ってしまうと、そのあたりが見えにくくなるかもしれないなと感じます。 私は、スカウティングが解決しようとしている「社会問題」は、「偽りの幸せ=快楽で満足してしまっている人が多いこと」だと考えます。先日紹介した、ローバーリング・ツウ・サクセスには、「暗礁」として、5つの快楽が挙げられています。だから、スカウティングの真の目的は、「《本当の幸福とはなにか》ということを教えること」なんだと思います。

では、本当の幸福はどうすれば得られるのでしょうか?それは、人によって少しずつ変わるのでしょうが、B-Pはラストメッセージの中でこう述べています。

しかし、幸福を得るほんとうの道は、ほかの人に幸福を分け与えることにある。

ローバーリング・ツウ・サクセスの中でも、

君は自分のことを自分でした上に、他人のことを助けることができるか?たとえば、奔馬を止めたり、溺れている人を助けたり、動脈を切った患者に救急法を実施出来たりするか?

と「青年の目指すべき姿」を示しています。

スカウティングはもちろん実践する一人ひとりのためにあるものですが、それが社会全体に拡がっていったときにどうなって欲しいか、というところまで活動できればと思います。いきなり、そこまで壮大な話になってしまうと難しいですが。。。

ではでは。

明確な信仰を持つ意味

スカウトは、ちかいに

一、神と国とに誠を尽くし、おきてを守ります

とあるように、明確な信仰を持たねばなりません。しかしながら、科学の発展と共に宗教の権威が落ちていっていっているのも事実です。B-Pが生きた19世紀後半から20世紀前半は、まさに科学の力が社会を変えていた時代です。

では、なぜB-Pは明確な信仰を持てと説いたのでしょうか。

宗教には、科学で解決できない問題を解決してくれる力を持っています。それは、一言で言えば、「心の支えになってくれること」です。人が落ち込んだり、不安になったり、絶望したりしたときに、心の支えとなり、自信に繋げてくれるのが宗教です。 科学的根拠を基に「安全」だと言っていたとしても、「安心」はできない、という理由で、いろいろな事業がストップされているのが一つ良い例かと思います。

特に、どの宗教でも「死」について触れています。死というのは、生まれた人間であれば何人も避けられない出来事であり、同時に人間が最も恐れることでもあります。 「死んだらどうなる?」 「死んだ後により良い世界に行くためには、生きている間に何をせねばならないのか?」 という恐怖と疑問に答えてくれるのが宗教なのです。

また、宗教は、自然の恵みに感謝することの大切さを伝えてくれます。それは、スカウトが自然の中で活動する理由の一つでありますし、B-P もラストメッセージの中で

自然研究をすると、神が君たちのために、この世界を、美しいものやすばらしいものに 満ち満ちた、楽しいところにおつくりになったことが、よくわかる。

と書いていることにも繋がります。人間が大自然から学ばせてもらえることは多い…そして、その大自然を作ったのは他ならない神である、といったことは、B-Pは繰り返し述べています。

もしかして、幸せな人にとって、宗教はいらないんじゃないか、と思ったりもします。映画「レ・ミゼラブル」で主人公が行く先々で冷遇された結果、たどり着いたのが教会だった、という場面を見てそう考えました。本当に絶望した人に救いの手を差し伸べるのが宗教なのではないか、と。 でも、幸せである、満たされていると思っていても、実はどこかでそうでない部分があるのではないかと思います。だからこそ、明確な信仰を持つことが、心の支えとなり、自信となり、より良い人生を送ることにつながるのだと考えます。明確な進行によって、心が健康になる、まさに「徳を養う」ことに繋がると思います。

ではでは。

スカウティングとは修行である

表題は、私が常に持っている新年であり、また、自分の経験からも間違いではないと確信しています。

そもそも、《修行》とはどういったものでしょうか。内田樹著『修行論』を読んで、私なりに解釈すると、こういった具合のものです。

武道でも料亭でも「修行の身」であるうちは、花形であるようなこと(相手と試合をするとか、お客さんに出す料理を出すとか)はさせてもらえず、一見「雑用」と思われるようなことや基礎的な練習しかやらせてもらえません。 「なんでこんな事が必要なんですか?」 「これをやることによって何ができるようになるんですか?」 という疑問には答えてもらえず、ひたすら修行に励むわけです。 そして、いつの間にやら、体の使い方や道具の使い方、感覚が研ぎ澄まされ、目指していたものが「上達」している状態になるのです。

「修行」で行ったことというのは、 「これだけやったから、○○ができるようになる」 と行った具合に、成果と一対一で結びつくものではないのです。先述の 「これをやることによって何ができるようになるんですか?」 という疑問に、今すぐ答えられるものではないからです。

修業によって得られるものは、《回顧的にしかわからないもの》です。 つまり、修行の成果は、修行をある程度こなした後に、やる前の自分と今の自分を比較したときにわかるギャップなのです。いま現時点で修業を終えた後の姿を想像することは出来ないのです。 基礎的な練習や雑用とも思える行為を師匠が弟子に「いいから黙ってやれ」というのは、別に意地悪をしてそう言っているのではなく、師匠ですら、弟子がどのように成長していくかわからない、あるいは、弟子に説明したとしても、弟子にはピンとこないため結局モヤモヤは解消されないということがわかっているから、なのです。

そういった意味で、成果や結果をすぐに求めたがる現代っ子には「修行」は難解で苦痛なシステムなのかもしれません。「やりがい」や「やる意味」を求められても悲しいかなすぐに答えられないのが修行です。

話をスカウティングに戻しましょう。 スカウトを長く続けている人は、上記の修行の意味を考えると「スカウティングは修行である」というのはあながち間違いでないことがわかってもらえると思います。 スカウティングの目的は、「良き社会人を育てること」です。しかしながら、スカウトの技能一つ一つがすぐに社会のお役に立つわけではありません。救急法はすぐに役に立つ場面があるかと思いますが、ロープ結びやキャンプの技能はあまりすぐに使えそうな気がしません。重要なのは、それらを通じて、”技能そのもの以外の何か”をあとで回顧的に「成長」として捉えられることです。

スカウトの指導者の難しさは、道場における師匠や料亭の大将のそれと似ているのかもしれません。 とにかく、子どもたちにはスカウティングになるべく長い時間触れてもらって、後で振り返ったときに「あぁ、こういうところは成長したなぁ」と実感してもらいたいものです。指導者も、そういった気付きが所々で得られるように指導していくべきだと思います。そうすれば、スカウト自身が成長の喜びを感じて、スカウト活動を辞めなくなってくれる、と信じています。

ではでは。

参考資料